
ベンジーはポップコーンとコーラを買って、一番後ろのど真ん中の席に陣取った。約2時間弱の上映が終了した後、興奮冷めやらぬって感じで彼が言ったのは、「オレ、飛行機の免許を取る!!」だったのだ。
ー いい映画だったねえ。
浅井 オレ、絶対に飛行機の免許取る!
ー そう思いたくなる映画だよ。
浅井 マジに取りたくなるだで。
ー 「紅の豚」を見ようと言い出したのはベンジーでしょ。どうして?
浅井 見たかったから。
ー 単純な理由だ(笑)
浅井 そういうもんだで。
ー もともと映画はよく見るほうなの?
浅井 フリークってほどでは無いけど見るよ。この前も達也と友達とオレの3人で「バットマン リターンズ」を見に行った。でもビデオはあんまり見なくなったね。カッタるくなる、途中で。前は真剣な映画が好きだったけど、今は娯楽モンにいっとる。
ー だから「バットマン リターンズ」か。でもあれは暗かったでしょう。
浅井 そうだね。娯楽映画とは言い切れんと思うよ。夢は無かった。
ー 真剣な映画っていうのは、どんな映画?
浅井 「プラトーン」とか「真夜中のカウボーイ」とか。クールな映画、重たぁーいやつ。今でもそういうのは好きだけど、結局はいつも答えが描かれとらんのだわ。リアルな映画を見ると、いつも虚無感だけが残るから。今は夢があって胸がトキメクようなのが好きになってる傾向がある。今日のは夢があってええなー。
ー 映画が終わったあとすぐに、免許取る!って宣言してたけど、マジに取る?
浅井 取るよ。だって飛びたいもん。
(ここでマネジャー氏が大ウケ。実はベンジーはすぐに影響を受けるらしく、映画「グレートブルー」を見た後に、”サーファー”になると言い出したり、ミッキー・ロークが日本でボクシングの試合に出るというニュースを新聞で見た後すぐにジムに通い始めたりした前歴があるらしいのだ)
ー アハハハハ。影響受けまくりだ。
浅井(マジメな顔して)それは違うよ。前からやりたいと思ってたんだで。
ー そう?あやしいなぁ。
浅井 すぐ影響されるんだと思われると困る。もともとやりたい気持ちを持っとって、触発されるだけなんだよね。きっかけみたいなもんだで。前から興味あったことばっかりなのに。
ー 人はそれを”影響”とは言わないのか(笑)
浅井 まあええで。そうやってみんなで”ベンジーはすぐに影響されて何かを始めるけど、すぐあきるヤツなんだ”って決めつけたいんだが。

ー 宮崎監督の過去の作品は見てた?
浅井 いちばん最初は、たぶん「ルパンⅢ世」。オレの好きなのは「風の谷のナウシカ」と「カリオストロの城」だな。素晴らしい作品だが。
ー宮崎監督の作品は”空を飛んでいる”作品がほとんどだよね。「紅の豚」も飛行機に乗ってる豚が主人公だしね。
浅井 空ってスゴイなぁと思わせてくれる。あんなに自由に空を飛べたらええなぁって、この映画を見た人なら全員が思うんじゃないかな。この前も「イリュージョン」ていう本を読んだんだけど、飛行機乗りの話でさ。あれもすごく良かったな。
ー オフの日は映画を見たり本を読んだり?
浅井 あとはバイクをいじってるか、友達と遊びにいったり。一人で映画を見に行くこともあるし、「バットマンリターンズ」みたいに何人かで見に行ったりもする。で、そのあとにズバッとかバタッとか(バットマンの)マネして遊んでギャグにしたりしとったよ。
ー バイクは買ったばかりのハーレー?
浅井 そうだよ。いじるの好きだで。
ー また、すぐにあきてしまったんじゃ、、
浅井 (ここでいきなり話が変わる!)やっぱり今日の映画は良かったよ。
ー まだ余韻冷めやらずって感じだねぇ。
浅井 宮崎さんの作品って、決定的な悪者がおらんのだわ。どの映画でもそうだで。世の中そんな捨てたもんじゃないって思わせてくれるのがええね。
ー 映画音楽に興味ある?
浅井 あるある。やってみたい。オレちゃんとした楽譜とか書けんけど、オレのやり方でできるんだったらやってみたいよ。
ー 映画の好きな所は?
浅井 そうだなぁ、、オレの知らない人生が描かれるところ。それを知って、色んな生き方とか考え方があるんだなぁって。
ー 好きな俳優さんはいる?
浅井 (ちょっと考えてから)ジャック・ニコルソン。フェイ・ダナウェイ。水谷豊。高倉健。菅原文太。
ー オススメの映画は?
浅井 「グレートブルー」「パーマネントバケーション」「あなただけこんばんわ」あとはいっぱい。
ー 映画に出てみたい?デビュー当時。「東京の休日」にライブシーンで出たけど。
浅井 出てみたいよ。おもしろそうだで。音楽とは違った世界で表現できるおもしろさは絶対あると思う。違和感のないセリフならすんなり言えそうだで。
ー どんな作品がいい?
浅井 くるくるパーじゃなければいい。
ー 本当に飛行機の免許を取れるのかなぁ。
浅井 取ったら乗せてあげるよ。
ー ヤダ。怖すぎる。
1992年インタビュー
